不信

人を受け入れる前に自分が受け入れられないと気がすまない幼稚なコミュニケーションをそろそろやめたい。と常々おもっているけど恐怖が先行してうまくいかない。変わりたい。

人の目を気にすることほど馬鹿らしいこともない。
というかなぜそもそも人の目を気にしてしまうんだろう。「こうしたら嫌われるんじゃないか」「こうしたら変に思われるんじゃないか」といっためちゃくちゃ幼稚な思考のもとに人の目を気にすることの動機があるんじゃないか。というかそれは実際妄想に近いはずだ。「べてるの家」では、そういった思考が頭の中に蔓延してる状態のことを「お客さんが来てる」と表現した。自分の一挙手一投足がやたらと気になって、それが他人に対して不快感を与えているのではないか、自分は変に写っているのではないか、そんな変な自分は嫌われてしまうんじゃないか、そんな思考を「お客さん」と言った。そんな思考は本来頭にあるべき思考じゃない、ただのよそ者だ。
人は思ったほど簡単には他人のことを嫌わないし、年齢が上がるに連れて一元的じゃなくてより多元的に捉えようとするようになる。彼が漫画がすきだからといってオタクだとバカにしたりはしないし、勉強が出来ないからって頭の足りない奴だと見下したりはしないし、話すのが下手だからといってコミュ障だと同情したりはしないし、ちょっと周りが見えていなくたってそういうものだと受け入れてくれる。他人に対して完全に自身を閉じない限り、敵意を向けない限り、友好的な関係を築きたいとする意志をなんらかの形で発信する限り、人はできるだけ自分を受け入れてくれようとするし、自分が足りないと感じる部分を含めただそういう人間なんだと認めてくれる。それどころかその欠点を含めて愛してくれさえする。他人に嫌われることを過度に恐れる人は他人が信用出来ない人だ。彼らがそういう能力とか見方を持ってることを信じられず、奴らは暇さえあれば自分を馬鹿にするような人間だと思っている。馬鹿にされないように無欠な態度で接するために、自分の欠点まで全部自分で補おうとして不自然なコミュニケーションを続けていくハメになる。自分の欠点はあくまでも補えないから欠点なんだ。欠けたとこがあってもとりあえず他人に自分を放り投げてみてあとは任せてみればいい。
それが一番自然な在り方なんだろうと思ったりもする。